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アダム・ラッパ リサイタル (2019/12/14)

更新日:2020年8月2日

Christmas Special Concert 聖夜のトランペット


2019年12月14日(日)午後6時、東京オペラシティ コンサートホール

トランペット :アダム・ラッパ Adam Rapa ピアノ:ヴィタリー・スタヒエヴィッチ Vital Stahievitch


12月14日、アダム・ラッパのリサイタルに行ってまいりました!


アダム・ラッパ

もう10数年前のこと、「Blast!」公演を聴きに行ったことがありますが、今でも鮮明に覚えている強烈な印象の一つが、トランペットのソリストが実音ハイF(五線の上に加線3本)を永延と伸ばし続けていたことです(1分間くらいにさえ感じた!笑)。当時の私は、人間にそんなことができるとは想像すらしませんでしたし(笑)、それが誰だかどんな人物でどんなコンセプトで楽器を吹いているのか、全く知りませんでした。


後に、アダム・ラッパという人が日本で教則本を出し、その時に初めて、あの時のあの人はアダム・ラッパという人物で、どのようなアプローチで楽器を吹き、音楽をしているのか、少しずつ知るようになっていったことは、今では懐かしいことです。


教則本はもとより、近年のYouTubeや各SNSの広まりもあり、ネットメディアを通じて彼の考えている事や吹き方について、様々に調べるようになりました。インディアナ大学に留学しトランペットを学んでいた頃もその例外ではなく、彼の演奏やデモンストレーションの様々な動画を何度も繰り返し観ては観察し研究していました。


なぜなら、彼の人間離れした演奏技術と表現能力の背後にある効率性(彼の言葉を使えば”efficiency”)や完全なリラックスは、私の演奏能力の限界や問題点を克服するためのキーであると信じて疑わなかったからです。

特に、超高音域を含む全音域におけるストレスのなさは、彼のパワフルなハイトーンから憂いを帯びたメロウな歌まで、心を揺さぶる高い質の演奏を可能にする要であると思っていましたし、今でもそう思っています。


アダム・ラッパ緊急来日!

そんな彼が、急遽来日するという情報を得たのは、コンサート数日前のことでした。


このコンサートは、当初は別のトランペット奏者のコンサートでした。しかし、その奏者が不運にも左手の骨折により演奏不可能となってしまい、その代役を急遽引き受けたのが、アダム・ラッパだったのです。


SNS上で流れてきた情報によってそれを知った私でしたが、「まさか……!」というのが率直な第一の感想でした。なぜなら、このコンサートはもともとクラシック奏者のコンサートであるため、クラシック奏者が演奏するのに適したプログラムで設定されており、アダム・ラッパの本業ともいえるジャズ等のフィールドとは異なるプログラミングで演奏をするというのです。しかも、そこにはアルチュニアンのトランペット協奏曲という、クラシック奏者の王道の協奏曲のひとつが含まれているのでした。アダム・ラッパがアルチュニアンを吹く…!これは(少なくとも現時点までで私の知る限りでは)かなり稀で貴重な機会に思えたのでした。もしかしたらこの先またとはないかもしれない。入っていた予定をずらしてまで、聴きに行くことを決断しました。



人間離れした演奏能力

当日のホールは、(1階席のみの開放でしたが、)9割程度埋まっていた印象。客層は、シニア層が過半数で、その他は制服を着た中高生や楽器を背負った若者、一般、という感じでした(あくまで印象)。


期待高まる中、アダムは、ゆっくりと歩きながら、完全なるリラックスと安心感とともにステージに登場。普通の奏者ならば、いや、おそらくほぼ全ての奏者は、程度の差こそあれ、緊張や気負いなどによるストレスが身体の動きや風貌に現れているものですが、驚くべきほどに、アダムにはそれが一切なかったのでした。「なんて落ち着き払っているのだ…。」そう私は思いました。


(以下は私の思い出す徒然とした感想ですが、トランペットの吹き手としての技術的視点からの色が強くなってしまい、純粋な音楽鑑賞からはやや離れてしまっていることをお許しください……。)


一曲目《夜空のトランペット》での最初の一音。一切のストレスの無い、ノンビヴラートの、楽器がただただ素直に自然かつフルに響いた、作為とウソの全くない美しい音で全てが始まりました。生でこの一音を聴けただけでも、私はすでに幸せに思えました。そして今思えば、これが終演までの大きなストーリーの全ての始まりでした。

ただ呼吸するかのように、音を出す直前に楽器を構えてはそのままスーッと音が生まれ、実にスムーズに歌うアダム。余計な動作と力みが、全くない。実際に目の前にすると、それは不思議な現象とさえ思えるほどでした…。


アルチュニアンの《トランペット協奏曲》は、上述の通りクラシックのトランペット協奏曲の王道でポピュラーなもののひとつ。古典的なトランペット協奏曲とは異なり、比較的新しい(1949~50年に作曲された)曲で、アルメニアの抒情性溢れた情感に訴えるような旋律と、速いタンギングを伴う技巧的なパッセージとを含み、非常に親しみやすい曲です。クラシック奏者でなくとも比較的取り組みやすい協奏曲と言えます。 アダムがどのようにこの曲を演奏するのか、非常にワクワクしていましたが、冒頭の旋律を聴いた瞬間、彼がクラシック奏者ではない、ということは私の頭の中から消えてしまいました。素晴らしく響きながらエネルギーを持った音で、丁寧で正当派の演奏という印象で曲が開始されたのです。

もちろん、曲全体を通して、様々なクラシック奏者の数々の演奏が頭に染み込んでいる者にとっての「普通」からすれば、そこから微妙に外れたテイストが興味深い部分もありました。しかしそれはむしろ、ハッとする新たなアイディアやインスピレーションを得る箇所がいくつもあった、と言うことができます(曲を細かく知っている人にのみ気付かれたと思われますが、音の拍数が少し違っていた部分が二箇所ほどあったのはご愛嬌…笑。)全体としては、正面からの誠実な素晴らしい演奏でした。

最後の長いカデンツァ部分はどうするのか、という点もワクワクしていましたが、通例となっているドクシツェル版を真正面からそのままで演奏していました。やはり特筆すべきは、(この曲中最も技巧的に難易度の高い)カデンツァも何のストレスもなく実に容易く吹いていた、ということです。正統派のまっすぐな演奏をしていながら、まだ何も吹いていないかのような完全な余力を残してこの曲を終える、という驚異的な事態が、当たり前のように繰り広げられていました。

これですでにある程度お腹いっぱい、と言ってもいいくらいでしたが(これをお読みの皆様もそうかもしれません(笑))、まだ2曲目が終わったばかり。普通はコンサートのメインにもなるアルチュニアンの協奏曲は、今回はまだ序の口。


サン=サーンスの《白鳥》は、彼の4本バルブの楽器の特性(低音域が拡張される)を活かし、ペダル音域から通常音域の行き来を音質の変化なくこの上なくスムーズに行いながら(技術的には非常に難しい)、自然な優美さを感じさせる見事な演奏でした。


そして何と、サン=サーンスの《バスーン・ソナタ》。バスーン(ファゴット)のソナタをトランペットで演奏するという離れ業。音域は、私の記憶が定かならば、(実音で)ペダルHからハイE。楽々とライトなタンギングでハイEを吹き終えた直後には、あまりの素晴らしさに、楽章間でも拍手が起きるほどでした。


一部と二部との間の休憩中には、ステージ上に置かれたままのアダムの楽器(彼の開発するLotus trumpetの楽器とマウスピース)をステージ下から観察する人々も見られました。

二部は、ガーシュウィンの《ラプソディー・イン・ブルー》で幕開け。どんな編曲で演奏するのかなと思っていましたが、トランペットとピアノ用としてはスタンダードなドクシツェルの編曲を使いながら、所々アダムによる(より難度を高める)変更が加えられていました(冒頭は下のFから始める、ドクシツェル版ではハイEsを避けてある所も避けずに吹く、ラストでソロは休みピアノに旋律を与えている部分も休まず吹く、など)。吹く側としてはなかなか消耗する曲ですが、アダムもちろん、余裕で終えていました。この曲も、実に誠実に演奏していた、というのが私の印象。


ピアソラの《オブリビオン(忘却)》も、本当に素晴らしかった…。エネルギーが内面的に行き交う音楽表現というのは、奏法上の余計なストレスがあるとむしろ達成しきれないと私は思いますが、ストレスフリーだからこそできるある種の音楽的ストレス表現が、心を打ちました。中盤でミュートを外しテンションの高まった部分では、アダムらしい魂の叫びが顔を出し、強いインパクトを残しました。


《川の流れのように》では、カップミュートをつけて演奏を始めましたが、驚いたことに、私にはその音が美空ひばりの声とそっくりに聞こえたのです…!大袈裟な表現だと思われるかもしれませんが、私は思いもよらない感覚にびっくりしました。情感豊かに、我々日本人にも違和感なく染みてくる歌を届けてくれました。


ここで少しマニアックな話にはなりますが、アダムは(二部で)曲ごとにマウスピースを使い分けていました。Lotusのマウスピースには材質が2種類ありますが(より広く響き柔軟な音をもつbrassと、より音のセンターにフォーカスし芯のある音をもつnickel silver)、おそらくこの2種類を使い分けていたのだろうと私は推測します。一部はおそらく全てbrassで演奏、二部はほぼ交互に使っていただろうと思います。もちろんどちらも大枠としての設計コンセプトは同じですが、響き方と音のフォーカスの仕方は明確な違いがわかりました。こんなに自然に響くのかという音から、ひとりでこんなに塊として強烈な音を出すことができるのかというところまで。



大きな器

一言で表現するならば、「ただ安心して音楽に身を任せていてくれればいいよ」というアダム・ラッパが、そこにいました。絶対的な安心感と大きな器の中でコンサートが進行していき、ひとつひとつの音とフレーズ、一曲一曲、そして全てのプログラムが、大きなストーリーとして聴く人の心に残っていく。開始のあの美しい一音から、アンコールの最後まで、多彩な音が紡がれていき、我々はそれを幸せに享受していく。そんなコンサートでした。ちなみに、最初から最後まで、奏法上の力みのある音は一音もありませんでした…。


アダム・ラッパの本来のジャンルでの演奏をよく知る人にとっては、その超高音域と強烈なパワーは発揮されることが今回のプログラムではほとんどなかったため、それを期待していた場合にはもしかすると物足りなさを感じたコンサートだったかもしれません。しかし、彼がこのようなプログラムのリサイタルを行うことはおそらくこれから先も稀で、今回はとても貴重なコンサートだったのだろうと思います。その上、クラシック寄りのプログラムであっても演奏はとても誠実であり、アダム・ラッパのアーティストとしての能力の高さを新たな側面で証明するコンサートだったと言えるでしょう。

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